薬害エイズ調査にみる厚生省の厚顔無恥

「知らない」(飯谷史典・生物製剤課血液係長)

 

「記憶がない」(中川久雄・生物製剤課課長補佐)

 

「記憶がない」(平林俊彦・生物製剤課課長補佐)

 

「不明」(志多良介・生物製剤課課長補佐)

 

 右の四氏はいずれも厚生省の役人である。肩書きは一九八三年当時のものだ。四氏は、厚生省の「血液製剤によるHIV感染に関する調査プロジェクトチーム」によって一九九六年三月一九日に公表された第二次中間報告のむかで、右の答えを判で押したように繰り返した。計三四の調査委員会による質問の多くに、ものの見事に「知らない」、「記憶がない」、「不明」と繰り返している。

 

 血友病患者の治療薬、血液製剤によるHIV感染はなぜ、どのような什組みのむかで発生したのか、調査委員会が真相解明のふれこみで発送した質問表に右のような答えを書かれだのでは、真相の片鱗さえもみえてはこない。

 

 当時の生物製剤課の課員のなかで、質間によがりなりにも答えているのは二人のみである。  当時の謬長、現在は東京大学医学部教授をつとめる郡司篤晃氏と、藤崎清道課長補佐(当時)である。

 

 だが彼らも積極的に協力するという意味で質問に答えたのではない。調査委員会がそれについて質間をしている手書きの書類に、筆跡という否定できない証拠が残っていたからである。言い換えれば、郡司氏も藤崎氏も、前述した四氏のように「知りません」、「記憶にありません」だけでは通用しなかったからこそ質問に答えたのであろう。

 

 両氏の答えの前振りとして「私の書き込みがあるので私か議論に参加したと思う」、「(私の筆跡なので)私か作成した書類だと思う」、「しかし、実際に(この)書類を作成した記憶はない」などというコメントが目立つ。

 

 血液製剤を直接所管した生物製剤課の幹部課員六人全員が、質間から逃げる、あるいは自筆の文書を示されながらもなお質間に答えないようにしたのはなぜか。

 

 それは一連の質間が、エイズ対策の根幹にかかかるある政策決定の疑惑にかかかるものだからだ。

 

 かいつまんで説明すると、エイズ間題が真剣に討議されていた八三年、生物製剤課の課長補佐の藤崎氏が七月四目および一一日の口付で二つのメモをつくった。

 

 四目のメモは、血友病患者のHIV感染を防ぐために加熱濃縮製剤を専門家に推せんしてもらい、導入を早めるために外国の製薬メーカーに輸入承認の申請を早くするよう指導する、危ない非加熱濃縮製剤は行政指導によって使わせないようにしていくという内容だ。

 

 一週回後の一一日のメモは四目とは正反対で、加熱濃縮製剤は中央薬事審議会で議論してもらう、つまり年単位の時間がかかる臨床試験をしてもらう、非加熱濃縮製剤の一律輸入禁止は行なわないとなっていたのだ。その結果が二〇〇〇人にも及ぶ血友病患者のHIV感染だった。

 

 わずか一週問でエイズ対策の根幹が大逆転した裏にどんな力が働いたのか、厚生官僚は被害者に対しても、国民に対しても、説明する義務があるはずだ。

 

 だが四人は先に述べたように、まるで答えようとはしなかった。自筆のメモが発見されたわけでもなく「記憶にない」といい通して逃れる意図がみえてくる。では「不運にも」筆跡を残したために質問に答えざるを得なかった郡司氏らはいったいどう答えたか。郡司氏はいう「私は指示していない。藤崎補佐が自主的に(書類を)作成したと思う」

 

 そして突きはなされた藤崎氏はいうI 「記憶にはない」という一一日の書面の内容は「(課内の)検討を経ての結論だったと考える」と。

 

 課長け補佐一人のやったことだといい、補佐は課で検討した結果だといい、課員全員がそれについて記憶がないという。この報告を「最終報告の心づもり」という厚生省のメンタリティにこそまさに真実を隠して恥を知らぬ体質がある。憎っくき厚生行政。それこそが薬害エイズを生み出した厚生行政の風土である。