だれのための「副作用被害救済基金」か

 医科歯科大学助教授の片平洌彦氏の著書『構造薬害』(農文協)を読むと、なるほど日本の薬害の数々は、構造的要因によって発生したことがよくわかる。

 

 構造的要因の最たるものは、「情報隠し」が厚生省と製薬企業の双方にあることであり、そのような実態が事実上おとがめなしで容認されていることである。この実態を変えて薬害被害を再発させないためにはどうしたらよいかが、遅まきながら今、検討されている。だが、情報隠しが社会制度のなかに構造的に組み込まれている以上、相当の変革を断行しなければ薬害防止などは望むべくもない。

 

 では変革は具体的にどんな内容であるべきか。

 

 第一に厚生省が、自らの責任をもっと認識すべきである。医薬品によって国民の健康が損なわれてはならないという点を確認し、揖保するのが国(厚生省)の基本的な責任だと周知徹底することだ。

 

 なぜこんな当たり前のことを今さら強調するのかといえば、厚生省には、真の意味での反省がないと断言できるからだ。現実の厚乍行政は今、理解できない方向に迷走しつつある。

 

 例えば、「医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構」という、語るも聞くもウンザリするほど長い名前の認可法人のケースがある。右の「調査機構」は、本来は薬害スモンの被害者救済のために一九七九年につくられた基金だった。

 

 製薬企業の拠出金と国の補助金でなりたつ同基令は九〇年までに九六億四二〇〇万円を集めた。一方、同年までの、薬害被害救済のために支払われた額は五億六〇〇〇万円余りにすぎない。

 

 収支は大幅黒字、つまり基金がたくさんあまっている。

 

 この間題を解消するために厚生省が行なったことは、まず製薬企業からの拠出金を、一〇分の一に減らし、それでもまだあまる基金を増やさないためにさらに五分の一に拠出金を減らすことだった。

 

 もう一つの解消法は、新たな什事を同基金に負担させることだった。例えば、新しい医薬品や医療機器の開発を支援することや、新薬の効能を確認する臨床試験を一部引き受けることなどである。

 

 本来の目的である薬の副作用による被害の救済事業にはきわめて不熱心である一方で、他の新しい役割は積極的に引き受けていくという方針はいくつかの理由で容認しがたい。

 

 第一に日本は先進諸国のなかでも市場に出なかった薬の追跡調査が非常に遅れている国だ。八八年の統計でみると、日本での副作用による被害やクレームは二六〇〇件たった。同じころ、 アメリカ政府の調太皿には七万件の副作用被害が報告されている。

 

 日本はアメリカの人目のほぼ半分である。日本での被害件数はアメリカのはぼ半分であってもよいはずだ。そうでないのは日本の医薬品がすぐれているからではない。調査機能が十全でないために、全国の病院でおきている被害を拾いきれていないためと分析されている。つまり副作用被害救済のための第一段階の仕事がきちんと果たされていないのだ。したがって「基金」が行なうべきは、本来の仕事にもっと積極的に取り組むことである。

 

 同時に被害を救っていく「基金」が、新薬の開発や薬の治験を行なってどうするのかという疑間が湧いてくる。薬をつくる側に立てば当然副作用被害などには目をつぶりたくなるだろう。マッチポンプではあるまいに、同じ組織がこのような相対立する役割を担うのはきわめて不健全だ。薬の安全性を担保する治験などは広くとらえればあくまでも厚生大臣の責任である。それを民間の認可法人に任せるのは間違いだ。

 

 迷走する厚生行政を本来の軌道に戻すためにも、スモン薬害被害への反省から生まれた同基金を、基金本来の業務に専念させることが重要である。         

安部英・元帝京大副学長の責任逃れ答弁

 一九九六年四月一七日、参議院の厚生委員会に元帝京大学副学長で元エイズ研究班班長の安部英氏が参考人として呼ばれた。川会による薬害エイズの真実究明作業の第一歩となるはずの参考人招致である。安部氏は先陣を切って質間した委員長への答えを出す前に、まず、非加熱濃縮製剤によってHIVに感染させられ病んでいる患者たち、またはすでに亡くなった患者たちの遺族に冒頭「挨拶」をした。

 

 「この場で、患者の皆さま方に心からお見舞い申し上げ、(亡くなった患者の)ご家族の皆さまに心からお悔やみを申しあげます」というものだった。「お見舞い」と「お悔やみ」は表現したが、そこには自分の非を認め「謝罪」しようという気持ちは欠落している。エイズ研究班班長としてエイズ対策を定め、それによって百八〇〇人を超える人々が、不治の病にかかったことは、自分の責任の埒外との姿勢をまず明確にした。その姿勢のとおり、安部氏の答弁は終始、責任逃れという視点で練り上げられていた。同時に、氏の答えは巧みに整理されてもいた。その整理のされ方は、例えば次の例をとおして浮かびあがらせることができる。

 

 八三年九月、全国ヘモフィリア友の会(血友病患者の団体)が厚生省に薬の安全性を高めて ほしいとの要望書を提出したが、この要望書の内容に、安部氏が無理に加えさせた項目があり、この点についての質問が発せられた。要望書には当初、四項目の「お願い」が書かれていた。第一は血液製剤および原料血漿の安全基準を設けること、第二はFDA(アメリカ食品医薬品局)の勧告以前に製造された製剤を回収することだった。FDAの勧告は八三年三月二四日に出されたもので(イリスクグループから採取した血液の使用禁止を謳っていた。第三の要望は安全とされていた国内血による製剤の増産。第四は加熱濃縮製剤の早期導入だった。

 

 第一と第二の要望はアメリカからの非加熱濃縮製剤の杣人禁止を事実上の目的としたものだった。患者たちは、加熱濃縮製剤の導入を求めると共に、加熱濃縮製剤が手に入るようになるまでは国内血でつくった製剤に戻りたいと考えていたのだ。国内血で製剤をつくる場合、量的問題を解決するためには、製剤はクリオと呼ばれるタイプになる可能性が高かった。もし、この要望書どおりに対策がとられていれば、今日私たちが直面しているほどの薬害エイズの悲劇はおきてはいなかったはずだ。

 

 だが、安部氏は、当時使われていた非加熱濃縮製剤以前に血友病治療の主軸であった、このクリオ製剤を徹底的に排除しようとした。エイズ研究班の下の血液製剤間題小委員会のメンバーを集め、「ちょっと嘘になるかもしれないが」と前置きして、クリオではだめだと主張し、クリオ推進論者を論破する可能性などを述べている安部氏のテープが残っている。

 

 また安部氏は八三年八月一四日に患者会の幹部に会い、「クリオに戻るなんていう要望は出してはいけない」と指示しかと患者側は証言している。こうして患者会の代表も説得され、要望書に、新たに一項目をつけ加えることになってしまった。内容は血友病の治療水準を後退させないではしいというものだった。事実、一世代前の治療薬であるクリオではいやだというものだ。この項目を加えたことで患者たちはのちのち、厚生省に「治療法を変えようと考えても、患者の方々がいやだとおっしやった。したがって非加熱製剤を使い続けたのはやりをえなかった」といかれ、責任をかぶらされてきたのだ。

 

 問題の項目のつけ加えに関して安部氏は「患者会の方が、私にそのことを進めてくれとおっしやっても、私は研究班の世話役はしたが行政的なことについては力がないのです。学間的に書いたりはできるが、行政に影響力を及ぼすことはできないのです」との旨答えた。

 

 問いに対してストレートに答えていない。それ以上に研究班班長は学間的にエイズ対策をみたのであり、行政判断に結びつくものではないと述べた点が狡猾で巧みである。

 

 人間的にHIVを論ずるのが安部氏の役割なら際限なく議論は厳密になっていく。その結果、タイミングもずれ、エイズウイルスが学問的に特定されるまで対策はとれないということにもなる。こうして「学者」安部英氏には責任はなくなる。このうえなく便利な逃げ道がそこにみえてくるのだ。       

覆された国内血液による治療薬製造計画

 厚生省は本当に懲りないお役所だ。薬害エイズはなぜ生じたか、その原囚を解明する調査の目的を裏切り、厚生省がさらに多くの膨大な資料を隠していたことが、一九九六年四月二日に公表された。薬務局長の荒賀泰大氏は、新たに公表したこの資料は(エイズ研究班の論議とは)関連が薄いと判断して出さなかったと答えた。だが、今、厚生官僚に求められていることは、一つ一つの資料に対する彼らの判断ではなく、関連資料のすべてを公開し、四民の判断を待つことである。

 

 おのおのの資料からなにを読みとるか、各資料が薬害エイズの全体とどうつながっているかを判断するのは厚生官僚の役割ではない。

 

 今回新たに出された資料の中になにが含まれていたかは、厳密には四月五日の公表まで待たなければならない。しかし、菅直人厚生大臣が記者会見で説明したところによると、資料の中では国内供給血による加熱濃縮製剤の促進、国内血の活用という点が強調されているという。

 

 このことは、二月に開示された通称「郡司ファイル」の中の、一九八三年七月四日の手書きメモと一致する。同メモについては先稿でも触れたが藤崎清道課長補佐(当時)が書いたメモの三ページ目、一番終わりの部分に「国内原料による第八因子製剤供給の方途」という段落がある。この段落を見て国内の血液製造メーカーは恐怖におののいたに違いない。

 

 この段落の冒頭に「対応」と書かれた文字が見える。続いて「対日赤」の文字が見える。つまり、これまで外田人の血液を原料として作られた血液製剤を用いて日本の血友病患者の治療を行なっていたが、目ざすべきは日本人の血液による日本人血友病患者用の治療薬の製造であり、その役割を日赤に拱わせようという考えだ。

 

 「対応」策の具体例として「藤崎メモ」は、「四〇〇ミリリットル採血」、「献血車の増加」と書いている。それまでは、一人一回、二〇〇ミリリットルしか採血できなかったのを倍増し、さらに献血車を増やし、より大量の献血血液を日赤に集めさせようと考えていたわけだ。そしてより重要なのは、「加熱処理濃縮第八因子製剤のライセンス取得」という文字である。

 

 これこそが、国内メーカーが恐れていたことだった。なぜならそのとき厚生省は、加熱血液製剤を製造する技術を開発していなかった日赤に、ライセンスを取得させようとしたわけだ。これは初めて日赤に「血葉分画製剤」と呼ばれる分野での血液事業を許可することになる。このことは、民問製薬企業のシェアを奪い取ることにもつながる。

 

 詳しく説明すると、エイズ対策の必要性が考えられていた八三年当時、日本の血液事業は厚生省の方針によって、日赤と民間企業のすみ分けが図られていた。

 

 日赤は、国民から無料で献血してもらい、それを「成分」に分けて医療に用いる。成分とは、 赤血球、白血球、血小板であり、また「血漿」と呼ばれる残りの部分のことをいう。日赤の参加できる血液事業はここまでだった。

 

 一方、民間の製薬企業には「血漿」を形成しているタンパク質の種類ごとにさらに細かく分画して、そのタンパク質で血液関連の医薬品を作ることが許されていた。血友病患者に処方された血液製剤は、第八因子または第九因子と呼ばれるタンパク質でできている。いずれも血漿をさらに分画して採取されたタンパク質である。つまり、血友病治療薬の製造は民間企業にのみ許可されていたわけだ。

 

 それなのに、八三年七月四目のメモは、これ以上、外国人の血液で日本の血友病治療をするのはやめて、国内血で、日赤に治療薬を作らせようとの厚生省の考えを示している。とすれば、シェアを奪い取られることを恐れた製薬メーカーは、おそらく猛烈な巻き返しを図ったであろう。その証拠に一週間後、厚生省の方策はどんでん返しされ正反対の内容になってしまうからだ。新しく提出された資料が、どこまでこの点を解くかぎになってくれるか。それにしても、いまだに資料を隠し続けている厚生官僚は、許しがたい。二〇〇〇人の犠牲者を生んだ薬害エイズ訴訟は真実の究明を条件の一つとして和解が成立した。その点を実行せずなお隠そうとする厚生官僚ならば、更迭も考えるべきである。               

薬害エイズ調査にみる厚生省の厚顔無恥

「知らない」(飯谷史典・生物製剤課血液係長)

 

「記憶がない」(中川久雄・生物製剤課課長補佐)

 

「記憶がない」(平林俊彦・生物製剤課課長補佐)

 

「不明」(志多良介・生物製剤課課長補佐)

 

 右の四氏はいずれも厚生省の役人である。肩書きは一九八三年当時のものだ。四氏は、厚生省の「血液製剤によるHIV感染に関する調査プロジェクトチーム」によって一九九六年三月一九日に公表された第二次中間報告のむかで、右の答えを判で押したように繰り返した。計三四の調査委員会による質問の多くに、ものの見事に「知らない」、「記憶がない」、「不明」と繰り返している。

 

 血友病患者の治療薬、血液製剤によるHIV感染はなぜ、どのような什組みのむかで発生したのか、調査委員会が真相解明のふれこみで発送した質問表に右のような答えを書かれだのでは、真相の片鱗さえもみえてはこない。

 

 当時の生物製剤課の課員のなかで、質間によがりなりにも答えているのは二人のみである。  当時の謬長、現在は東京大学医学部教授をつとめる郡司篤晃氏と、藤崎清道課長補佐(当時)である。

 

 だが彼らも積極的に協力するという意味で質問に答えたのではない。調査委員会がそれについて質間をしている手書きの書類に、筆跡という否定できない証拠が残っていたからである。言い換えれば、郡司氏も藤崎氏も、前述した四氏のように「知りません」、「記憶にありません」だけでは通用しなかったからこそ質問に答えたのであろう。

 

 両氏の答えの前振りとして「私の書き込みがあるので私か議論に参加したと思う」、「(私の筆跡なので)私か作成した書類だと思う」、「しかし、実際に(この)書類を作成した記憶はない」などというコメントが目立つ。

 

 血液製剤を直接所管した生物製剤課の幹部課員六人全員が、質間から逃げる、あるいは自筆の文書を示されながらもなお質間に答えないようにしたのはなぜか。

 

 それは一連の質間が、エイズ対策の根幹にかかかるある政策決定の疑惑にかかかるものだからだ。

 

 かいつまんで説明すると、エイズ間題が真剣に討議されていた八三年、生物製剤課の課長補佐の藤崎氏が七月四目および一一日の口付で二つのメモをつくった。

 

 四目のメモは、血友病患者のHIV感染を防ぐために加熱濃縮製剤を専門家に推せんしてもらい、導入を早めるために外国の製薬メーカーに輸入承認の申請を早くするよう指導する、危ない非加熱濃縮製剤は行政指導によって使わせないようにしていくという内容だ。

 

 一週回後の一一日のメモは四目とは正反対で、加熱濃縮製剤は中央薬事審議会で議論してもらう、つまり年単位の時間がかかる臨床試験をしてもらう、非加熱濃縮製剤の一律輸入禁止は行なわないとなっていたのだ。その結果が二〇〇〇人にも及ぶ血友病患者のHIV感染だった。

 

 わずか一週問でエイズ対策の根幹が大逆転した裏にどんな力が働いたのか、厚生官僚は被害者に対しても、国民に対しても、説明する義務があるはずだ。

 

 だが四人は先に述べたように、まるで答えようとはしなかった。自筆のメモが発見されたわけでもなく「記憶にない」といい通して逃れる意図がみえてくる。では「不運にも」筆跡を残したために質問に答えざるを得なかった郡司氏らはいったいどう答えたか。郡司氏はいう「私は指示していない。藤崎補佐が自主的に(書類を)作成したと思う」

 

 そして突きはなされた藤崎氏はいうI 「記憶にはない」という一一日の書面の内容は「(課内の)検討を経ての結論だったと考える」と。

 

 課長け補佐一人のやったことだといい、補佐は課で検討した結果だといい、課員全員がそれについて記憶がないという。この報告を「最終報告の心づもり」という厚生省のメンタリティにこそまさに真実を隠して恥を知らぬ体質がある。憎っくき厚生行政。それこそが薬害エイズを生み出した厚生行政の風土である。

情報を改ざんする厚生省の卑劣

 

 

 薬害エイズはなぜ発牛したのかを明らかにするため菅厚生大臣の強い決意でエイズ研究班のメンバーをけじめとする七二人に、当時の事情を問い合わせたアンケート調査が行なわれた。その結果が、一九九六年二月二八日に開示された。厚生省が長年の事実隠しともいえる後ろ向きの姿勢を改めて、積極的な情報開示に転じたのかと思いつつ読んでみると、ちょっとおかしなことに気が付いた。厚生省が情報を改ざんしていたのである。

 

 改ざんされたのは当時血液製剤間題小委員会の委員としてエイズ対策の決定に大きな役割を果たした一人で、現在聖マリアンナ医科大学教授の山田兼雄氏のコメントである。

 

 山田氏は八四年一月五日に当時の厚生省のエイズ問題の担当課長郡司篤晃氏をけじめ、ほか二人の血友病専門医らと共に東京・八重洲で会合したという。その前に前年つまり今年の暮れに、危険な非加熱濃縮製剤に代わるものとして加熱濃縮製剤を日本に早期に導入するには、剤型変更という方法があることを郡司謀長から聞いていた。八重洲の会合ではその剤型変更が話題になり、日本はこの方法で緊急に加熱濃縮製剤を導入したほうがよいという話になった。それでそのことを、加熱濃縮製剤に反対している安部英エイズ研究班班長にこんなやり方もありますよと、話した。これが山田氏のコメントのあらましだ。

 

 ところがここに厚生省が噛みついた。二月二五日の日曜日の夜九時すぎに厚生省の官僚が山田氏の自宅をわざわざ訪ね、山田氏に向かっていったそうだ1「先生の列記憶には間違いがあります。訂正文を出してください」と。

 

 「間違いだ」と厚生省がこだわった部分は、「八三年暮れ」に郡司課長から剤型変更の話を聞いたということと「八四年一月五日」の会合で郡司謬瓦らと再び剤型変吏について語ったという部分だそうだ。ちなみに剤型』変更とは、薬の製造法など一部のみを変更した場合、効能にも副作用にも変化はないと認めて、新薬扱いせずに、簡単に承認するやり方のことである。

 

 厚生省は八三年末や八四年初頭に郡司課長が加熱濃縮製剤を剤型変更扱いにしてスピーディーに認めようなどという議論はするはずがないといったわけだ。その理由は、当時はすでに加熱濃縮製剤を剤型変史の扱いにはしないことが決まっていたからだという。

 

 たしかにこの時期、加熱濃縮製剤は新薬扱いできちんと治験を行なってから中央薬事審議会で審査する方針が決まっていた。つまり、加熱濃縮製剤は早期に承認されるどころか、長い治験期間を経なければ認めないと決定されていたのだ。

 

 山田氏は日曜日夜にわざわざ自宅を訪ねた厚生官僚に、「こんなふうに訂正をださせるようなことをすれば、マスコミも気付いて大きな話題になりますよ」と警告した。厚生官僚は「それも仕方のないことです」と答えたという。そして翌月曜日の午前中、この厚生官僚は再び山田  氏に連絡して前夜の話どおり訂正文の提出を改めて求めたという。

 

 なぜ厚生省はここまでこだわるのか。それは剤型変更といういわば緊急手段を考えたほど、従来の非加熱濃縮製剤に危機感を抱いていたと思われたくないからだ。さらに踏み込めば、それほど非加熱濃縮製剤の危険を感じていたなら、なぜその使用をストップさせなかったのかと責任追及されることを恐れているのだ。

 

 山田氏は「記憶に間違いがあります」といわれたときに「恥ずかしい」と感じたそうだ。医療の専門家の自分がそんな間違いを記憶していたことを恥じたという。だが、恥ずべきは山田氏かそれとも厚生省か、答えは明らかであろう。

 

薬害エイズ禍拡大のからくり

 九六年二月二一日、菅厚生大臣が設置した調査委員会によって一九八三年当時、エイズ研究班でどんな議論が行なわれていたかに関する資料が公表された。

 

 これは六年間にわたる東京HIV訴訟で。原告側か提出を求めたにもかかわらず、繰り返し存在が確認できないといわれていた資料だ。

 

 六年間も探し続けてこれまでみつからなかったはずの資料が、倉庫でも書庫でもなく、多勢の官僚の机の並ぶフロアの書棚でみつかっかそうだ。あまりに白々しいが、内容のあらましをみると、厚生省がなぜ、嘘に嘘を重ねてこの資料の存在を隠し続けてきたかがわかる。厚生省内では、当初から非加熱濃縮製剤が危険だとの認識があったこと、そのため安全な加熱濃縮製剤への切り替えは、八三年一一月という早い時期にも可能だとの議論もされていたこと、ただし、その場合、加熱濃縮製剤の開発で後れをとっている国内メーカーの売上げへの影響はどうなのかと心配する声があったことなど、実に生々しい内容なのだ。

 

 公表された資料から浮かんでくるのは、国民の生命など気にかけずに、まるで車やコンピュータ市場をみつめるような冷徹な目で血液製剤市場を眺めている姿勢である。

 

 公表された資料でも明らかなように、当時日本にさかんに輸入されていた非加熱濃縮製剤の危険性は、エイズ研究班でも認識されていた。もちろん、研究班を設置した厚生省こそがその危険を最も鋭く察知していたはずだ。

 

 そして、安全な加熱濃縮製剤に切り替えての輸入が、手続きの時間を考えても八三年一一月には可能だと論議しておきながら、輸入を許可した場合の日本のメーカーとくにミドリ十字の損失を考えるのだ。結局、加熱濃縮製剤への切り替えをそれからはるかに遅い八五年七月までのばした。

 

 この人命軽視の政策が生まれた背景には、ミドリ十字による猛烈な政界、官界への働きかけがあったと考えるべきだろう。

 

 二月二〇日の国会で明らかになったことは、ミドリ十字自民党に八二年から九四年まで一億円を超す政治献金をしていたことだ。梶山宣房長官は「ないことにこしたことはないが……」とコメントしたが、むしろ、解明すべきは、表に出されている政治献金ではなく、ひそかに、厚生族といわれる政治家たちに渡された政治献金がどれはどの額にのぼるかという点であろう。

 

 またもう一つの側面は、厚生官僚だもの製薬業界への天下りの多さである。これまで厚生省薬務局から製薬業界に天下った官僚はI〇〇人近くにものぼる。おまけに、八三年当時のミドリ十字の社長は、松下廉蔵氏である。彼は厚生省薬務局長経験者の天下りだった。副社長の小玉知己氏も松下氏と同じく元薬務局長だ。さらに今村泰一取締役も厚生省からの天下りというのは、あまりに衝撃的である。

 

 加熱濃縮製剤の開発で最も遅れていたミドリ十字にとって、厚生省やエイズ研究班が、エイズ防止のためとはいえ、外国企業の加熱濃縮製剤を日本市場に入れるとなると、大打撃となる。国内市場の五〇%のシェアを誇っていた同社にとってそれは存在の危機を意味する大事件のはずだ。このような危険に直面して、それまで長年にわたって献金し、天下りを受け入れ、高額の給与や手当てを払ってきた貸しを、ミドリ十字がI気にとり戻すべく暗躍しかと考えるのは、ごく自然な推理だ。

 

 薬害エイズ禍をここまで広げた本当の。犯人”を見つけ出し、真相を明らかにするには右のようなミドリ十字対外国の製薬企業の戦いを軸に、もう一度、事件全体を解明しなおす必要があるだろう。

 

 同時に、厚生官僚の嘘について、私たちはもっと厳しい姿勢で臨むべきだろう。HIV訴訟の法廷でも国会でもインタビューでも、厚生省側は信じ難いほどの嘘を重ねてきた。その嘘のつきっぷりは、実際に取材を重ねてきた私にとってまさに想像を超えたものだった。当時の担当課長郡司篤晃氏は今偽証罪で告発されているが、歴代の薬務局長らにも同様の罪を問い、事実を明らかにさせるべきだと、私は強く思う。

揺れるHIV訴訟の和解交渉

 薬害エイズの責任を国と製薬企業に問うHIV訴訟の和解交渉が今、揺れている。国は謝罪を拒否し、被告製薬企業五社は金銭的負担を拒否し、場合によっては和解協議から離脱するとの申し入れを裁判所に行なっていることが毎日新聞のスクープで判明した。

 

 裁判所が和解案として示した被害者一人当たりの一時金は四五〇〇万円である。これを企業と国がそれぞれ六対四の割合で支払うよう、第一次和解案では示された。企業側はまず、この六割の負担を多すぎるとし、国がもっと負担すべきだと主張している。

 

 このはかに裁判所は患者のための健康管理や治療体制の確立に最善を尽くすよう勧告したが、これらの費用いっさいの支払いを企業側は拒否し、全額を国が負担すべきだと主張しているというのだ。

 

 なんという倣岸だろうか。明らかに薬害によって引き起こされたHIV感染に対し、ほとんど介業としての責任を感じていないかのような主張である。

 

 この強硬主張の背景には外資系製薬企業のバクスター社の意向があるといわれている。同社は、一九八三年の早い時期から、厚生省に対し、加熱濃縮製剤の輸入承認を申請していた。加熱によって血液製剤に混入しているエイズウイルスが死滅するのだが、当時日本の厚生省はこの新しい加熱濃縮製剤を信頼せず、輸入承認の申請を却下した。

 

 このような経緯からみて、バクスター社側には、自分たちは、早々とHIV対策を打ち出していた。それにもかかわらず対策を実行させなかったのは厚生省である。したがってバクスター社側の責任は国ほど重くはないという考えには、それなりの理由もあるかもしれない。また、日本の裁判で薬害エイズに対する責任を認めてしまえば、諸外国でも同様の訴えをおこされ、裁判に敗れるかもしれないというおそれもあるだろう。

 

 その点け、理解できないわけではない。だが、そうであるなら、なおさらバクスター社は、製薬企業側のまとめ役として、金銭的負担を拒否するだけでなく、拒否に至る十分な根拠を自ら示すべきではないか。

 

 一体、どんなやりとりが厚生省とのあいたで、実際にあったのか。バクスター社が主張するように、国には大きな責任がある。しかし、厚生省側は、ありとあらゆる方法で、できるだけ情報を隠し、事実を隠してきた。同社が経済的負担に断固反対するのなら、そんな厚生省の責任をこそ具体的に明らかにする義務があるはずだ。それなくして、単に支払いを拒否するとしたら、それは企業のエゴイズム以外のなにものでもない。

 

 今、東京からはなれて地方に行けば行くほど、HIV感染者の治療耐性が欠如しているのに気が付く。例えば大分県の場合、私の知る限り、これまでに八人のHIV感染者が亡くなって  いる。地元で彼らを支えてきた人々の話を聞くと、この八人の患者は、エイズの発症予防やきちんとした治療を受けることができずに亡くなっていったという。「彼らが最新の医療を受けることができていたら、まだ元気に暮らしていたと思う」と、患者を支えてきた人々はいっていた。

 

 事実、他の県ではあるが、九州地方のある二人の患者は、健康な人の免疫数値が1000から一五〇〇であるのにくらべて、ほとんどゼロにまで免疫機能が下がっている。にもかかわらず、まあまあ元気に暮らしている。自分で車も運転し、会合にも出席する。

 

 それはこの二人が、月に二度の割合で東京大学附属医科学研究所に通い、最新の抗HIV治療を受けているからだ。HIVは今や必ず死ぬ病から、わずかな可能性ながら生き残りが可能な病へと変わりつつある。そのためにも最新の医療体制の確立がどうしても必要なのだ。

 

 バクスター社に、自分たちは本当にエイズ対策をとろうと努力したのだという自負があるならば、先述のように厚生省の責任を積極的に明らかにし、かつ、患者のための補償と医療体制を整えるべく、前向きのリーダーシップを発揮すべきであろう。